幸せの尺度について

有難いことに、

「最近は連ドラの撮影ですか」ってくらい毎日スケジュールが詰まっています。

私史上、

最も多忙な日々を過ごしている気がします。

 

ですがすごく毎日楽しいです。

これくらいがちょうど良いと思えるほど楽しんでいます。

 

 

こんな日々を過ごせているのは間違いなく、

てつ(大学時代のサッカー部同期)と陸(現職の同期)、ジートピア(カプセルホテル)のお陰です。

 

本当にありがとうございます。

まだまだお世話になります。笑

 

 

さて、

急に話しが変わりますが、

皆さんは今幸せですか?

 

私は幸せです。

 

なぜなら、

五体満足でこの世に生まれ、不自由なく今この瞬間を生きることができるからです。

 

 

先日、

母にこんなことを言われました。

 

「そんな高い旅館に行かなくていい。

若いうちから高い水準ばかり見ていると下を見れなくなるよ」

 

私は1泊約5万円の旅館に1人で行こうとしていました。

そのことを伝えたところ、ああいう返答が返ってきました。

 

なぜだかわかりませんが、スッと受け止められた自分がそこにはいました。

 

 

幸せの尺度って、

もしかしたらどれだけドン底を見ているか、経験しているかで変わるかもしれない、そう思いました。

高い水準ばかり求めてしまうと、

尺度が狭くなる傾向にあるのかもしれません。

 

考えてみると確かにそうだなと思います。

家賃10万円の賃貸から、

家賃2万円の賃貸に生活水準下げられますか?って話しですよね…。

極端な例ですが、

一度美味しい経験をするとなかなかその水準から下げづらいのが人間です。

 

 

だから若いうちは幸せの尺度を広げる為にも、

泥臭く生きること、求めすぎないこと、生活水準をあえて下げてみることもいいかもしれません。

 

私は有難いことに幼い頃からバングラデシュのとんでもない環境を少し経験していました。

そのおかげもあってか、

「生きたくても生きられない人もいる」

「ご飯を食べたくても満足に食べられない人もいる」

「子どもの頃から働かなければいけない人もいる」

「水道水が飲めるのは当たり前ではない」

「物乞いをしなければいけない人もいる」

 

というように世界最貧国の生活水準を見ていたから日本での生活がどれだけありがたいことなのかが実感できるようになりました。

同時に、目の前の当たり前は当たり前ではないこともある。と感じるようにもなりました。

そういう風に感じ取るようになってからは、

感覚が麻痺しづらくなったような気がします。

 

当たり前が当たり前じゃなくなった瞬間、

今までの高い生活水準(不自由ない生活)からそれより低い生活水準になった瞬間に幸福度は一気に下がります(と思っています)。

同時にストレスも溜まっていきます。

今までの幸せに感じていたことが幸せに感じられなくなるから…。もっと、もっと、、もっと、、、というように・・・。

ある意味「お金」と一緒かもしれません。

 

お金をたくさん持っている=幸せである が科学的にNOTであると示されていますよね。

高級レストランに行く、高級サウナに行く、高級ホテルに泊まる、高級車を買う、高級品を身に着ける・・など、

今の私には必要ないのかな、、、っと思います。

が、そういう生活も憧れますけどね。

 

 

 

生活水準を下げろと言うわけではありません。

下を見れば見るだけ、普段の有り難みを実感できて、こういう生き方もあるんだ、と

物差しの長さを広げることができます。

 

もう少し歳取って、

一通りやり切ってから良い宿にでも泊まってゆっくりしますか〜〜!

それまでに生きていればの話ですが…😆

 

まだまだくたばりませんよー。

 

 

 

今週も最後までありがとうございました。

また来週もよろしくお願いします!